文庫-LOG

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4冊目『ソクラテスの弁明・クリトン』/プラトン

ソクラテスの弁明・クリトン (岩波文庫)

ソクラテスの弁明・クリトン (岩波文庫)

 

『文庫-LOG』のアイキャッチ画像は、ブログ筆者である山崎の書棚のなかで、一番偏差値の高そうな部分を切り取ったものです。見栄を張るためです。このアイキャッチ画像、見事に岩波文庫しか並んでいないのにもかかわらず、当ブログでは岩波文庫レーベルから出版されたものを紹介していないというのはいかがなものか……。

ところで岩波文庫ってどういうイメージでしょうか。文庫LOVEを標榜するこのブログでは、等しく文庫を愛したいのですが、どうも文体や、書いてある内容の難しさから、本から距離を置かれているような気がして仕方がないというか……とっつきにくい感じがりますな。

そんなとっつきにく岩波文庫でも、入り口にいかが?という書籍が何冊かあります。その中で、『文庫-LOG』ではこの本をチョイスしてみました。

ソクラテスの弁明・クリトン』は、日本初の文庫である岩波文庫でも、最初に出版された数十冊の中に入れられている著作です。更に、岩波文庫で一番読まれている書籍でもあります。岩波書店の公式HPにはそのように書かれています。

www.iwanami.co.jp

ソクラテスが誰なのか、どういう人なのか(「無知の知」を悟ったとか、論破厨だったとか)そして本書がどういうものであるのかということを語るのは、まともな書評家さん達が、僕のこの300文字程度に渡るムダなマクラの代わりに解説されていると思いますので、ここでは書きません。

また、哲学的な分析も、実力不足でできません。

この記事は、本書を読んだ僕の「感想」をあくまで記したいと思います。

もし、このとおりに、ソクラテスが法廷の場で語れていたのだとしたら、「ものすげえカッコいいよな」って事が言いたい。

ソクラテスがどうして死刑になったのかというのは、岩波新書の田中美知太郎著『ソクラテス』にものすごく簡潔に纏められていて、この部分を引用したいと思います。

ソクラテス (岩波新書)

ソクラテス (岩波新書)

 

 ところで、アテナイの法廷がソクラテスの死を判決したのは、はじめにメレトスという者の訴えを受けたからであって(中略)それは次のようなものであったらしい。

「(前略)すなわちソクラテスは、国家の認める神々を認めず、新しい鬼神(ダイモン)のまつりを導入するの罪を犯し、且つ青年に害悪を及ぼすの罪がある。これはまさに死に当るものである」

(中略)

アテナイの法廷は、いわゆる陪審制であって、普通の市民から選出された人々が、投票によって、有罪無罪を決定し、更に原告と被害の申し出にもとづいて、刑を定めることも有った。ソクラテスの場合に、裁判に当たったのは五〇一人であったらしい。そしてかれは、二八一票対二二〇票で、有罪の判決を受け、刑の申し出において、法廷を怒らせたので、メレトスの主張していた死刑ということが、三六一票という大多数をもって、可決されたのであった。 

有罪かどうかを判定するのに61票差であったのに対し、死刑か否かという場面になって、「法廷を怒らせたので」大多数で死刑になるという。何をしでかしたのか?と気になりますよね。実際に、どんなことを言っていたのかを引用してみましょう。

私はむしろ私のいわゆる最大善行を何人にも親しく個人的に行うことのできる方面におもむいた。(中略)アテナイ人諸君、かくの如き人には、プリュタネイオンにおいて食事をさせる以上にふさわしいことがないのである。

大事なところだいぶ端折ったんですけど、つまりですね、このソクラテスという男、原告側が死刑を求刑してきたのに対して、「いやおれめっちゃいままで貢献してきたんで、いい所で食事させてくれや。それがふさわしい」と言いのけたんですね。ちなみにプリュタネイオンってどういうところなのかと言うと、本書の注釈には

33.(前略)メレトスは死刑を提議した。ソクラテスはこれと正反対に、アテナイ市の付与し得る最高の栄誉即ちプリュタネイオンにおける給養を正当として提議した。

と書いてあります。

調べたら、この「プリュタネイオンにおいて食事」というのは、古代オリンピックであるオリンピュア祭りの優勝者と同じ待遇であったとも言われているそうです。そんなことを言われてしまえば、普通に「この老いぼれ調子のりやがって」ということで、死刑になるでしょう。実際、そうなってしまいました。

死刑を告げられた後、ソクラテスが最後の弁明をします。これが、単なる負け惜しみには聞こえない凄みがあります。

有罪票を入れた人たちには、今よりも更に多くの問責者や厄介者が出てくるだろうという予言をしています。それを俺が食い止めていたけれど、死刑になる。その後、そういう人たちを食い止められると思っているなら間違っている。正しいのは人を圧伏することではなくて、人それぞれが善く生きようとすること。さらばじゃ。

と、こういう具合です。

無罪票に入れた人達に対しては、死後の世界が人々の言うようなものであれば、どれほど良いだろうということを繰り返し伝えます。

哲学者の代表、理性の人として知られるソクラテスですが、宗教心に満ちた人でもあり、神霊の声による予言的警告というものを何度も聴いてきたと言われています。それは、ソクラテスがどんなに些細なことであっても曲がったことをしようものなら、ソクラテスを制止させてきたのでした。

でも、今回ソクラテスが死刑になっても、また弁論の最中も、法廷に赴く朝も、それが全く聞こえなかった……ということは、今自分が死刑になることは、良いことかもしれないと考えるわけです。

当時は死後の世界が信じられていました。ソクラテスは、もしそれが本当なら、過去の英雄たちとか、あの人は賢かったとか、偉かったとかという人たちと、この世でやってきたこと(論破)と同じようなことができるのって、良いことかもしれないじゃないか!と言ってのけるわけです。あの世でも語り合いたい!哲学大好き!

そもそも、ソクラテスがどうして論破厨になったかといえば、神様からのお告げもきっかけだったわけです。その辺りも、本書の最初の方に、自分の哲学的活動を並べる「脱線」と呼ばれる部分があるのですが、書いてあります。そうした宗教心に裏打ちされた弁論内容だった訳ですね。

いくら宗教心からとはいえ、自分がやっていることは、神的な判断によって正しいから……という理由でここまでの態度を取ることができますかねぇ~。僕は特定の宗教に傾倒しているわけじゃないんですけど、ようは形而上のポリシーに沿って生き抜くということじゃないですか。視野狭窄に陥る可能性があったとしても、単純にめちゃくちゃ格好いい。

このソクラテスの弁明の最後の部分を思い出す度に、遠藤周作の『沈黙』や、作品に出てくるキチジローを思い出します。信仰に背かずに生きるというのはどれほど大変なのか。棄教を迫られた宣教師たちには拷問が加えられていたり、信じている宗教(古代ギリシアの神々か、キリストか)も全然違いましたから、ソクラテスとは少し事情が違うのでしょうけれども。

沈黙 (新潮文庫)

沈黙 (新潮文庫)

 

で、『クリトン』ですけれども、これはソクラテスの友人であったクリトンさんが、ソクラテスに脱走を持ちかけるんですけど、「それはダメだ」とソクラテスがクリトンをボコボコに論破する対話篇です。これもプラトンが書いています。僕がソクラテスの立場だったら、「え~~~そんな良くしてくれるの~~行く~~~~」とか言いそうなんですけどね。

ソクラテスがクリトンに対して言ったことを、かいつまんで説明しちゃうと、更に法を犯す(脱走する)ことがゼウスにかけて正しいことなのかということです。ソクラテスは、例え自分にかけられた死刑がでっちあげの不正であったとしても、個人が共同体の許諾なしに、牢獄から出ることは、それもまた不正ではないのかとクリトンに問う訳です。

クリトンやプラトンなど、ソクラテスの弟子たちの気持ちを考えると気の毒でならないんですけど、ソクラテスは「善く生きること」を考え、周囲にそれを納得させ、最期までそれを貫きました。

その後、彼の弟子たちによって、古代ギリシアの哲学が大きく前進することになりますが、ソクラテスがそれを見ることはありませんでした。特にプラトンにとっては、この出来事は衝撃的な事件であり、厳密な知の世界の探求をライフワークとするわけですが、現代の人々に、こうしたソクラテスのような人間はどう見えるでしょうか。

僕には単なる「ウザい論破厨のおじいさん」とは思えません。個人と共同体、さらには人間を超越したものとの調和を目指そうとした、ものすごい人に思われて仕方がないのです。

「信念を持って生きる意味」というのは、現代において、多くの自己啓発家、活動家達によって陳腐化してしまいました。人間の精神は、いくら信念を持っていても、簡単にそれを退けることができます。僕なんて退きまくってここまできました。退いた結果、良い状況を招く場合もあります。

ソクラテスの時代でも、彼の哲学的方法を危険視し、有罪の後、死刑ということになりました。死刑の原因は、彼の信念によるものかどうかというのは意見が分かれるところだとは思いますが、僕は社会が「善く生きること」に絶えられなかったのかもしれないと思っています。それこそ哲学や諸科学がこれだけ発展しても、社会は調和の兆しを見せません。自分を顧みても、そして周囲を観察してみても、「善く生きること」という言葉は抽象的過ぎて、それぞれ独善的に解釈されてきた可能性があります。

価値観の多様化した社会において、「善く生きる」とはどういうことなのか。

特定の価値を信奉するということがマッチしない時代で、それを考えるのは無意味なことなのか。頭の悪い僕には分かりませんが、取り敢えずの前提として『ソクラテスの弁明・クリトン』があると思います。本書を読むことで、「善く生きる」とは少なくとも、単なる自己満足的な欺瞞に基づくものではないということは、再確認できるかなと。

あまり気張るのも毒ですが、来るべき五月病にそなえて本書をポケットに忍ばせてみてもいいんじゃないかしら。