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2冊目『読んでいない本について堂々と語る方法』/ピエール・バイヤール

読んでいない本について堂々と語る方法 (ちくま学芸文庫)

読んでいない本について堂々と語る方法 (ちくま学芸文庫)

 

ブックレビューブログでありますが、2冊目にして今後の書評クオリティを疑われそうな本を先に紹介しておきましょう。書き手の僕が、より楽にできるように。

『読んでいない本について堂々と語る方法』は、本について携わるものであるならば、必ず読むべき本である!と断言しても良い。それくらい、僕にとっては画期的な良書でありました。一言で言えば、既存の読書本にはない切り口で、「教養」や「読書」に向き合う本です。

どんな人にオススメか。

あなたが周囲の人間に対して、「私は本が好きである」ということを公言していたり、本を読むことを迫られる職業(学者や書店員など)に就いていたりするならばなおのこと、本書は必ず読むべきでしょう。

このような人たちは、場合によりますけれども、読書量が多ければ多いほど、読者個人の権威性が増し、逆に「みんな読んでいて当然」という認識のある本を読んでいない場合、それは恥であるというような世界で生きている確率が非常に高いのです。

本を読むことが生活の一部になっている人にとって、「未読の本についての話を振られる」ということは、太っていることがコンプレックスの人に「体重いくつ?」と聞くようなものです。とてもナイーブな問題なんですよ。でも大丈夫。バイヤールが乗り移れば、きっともう、「あの本は読んでいない」ということで悩むことも無くなるはずです。

この本は、「本を読む」という行為に対して真摯に向き合うところから始まります。この一番最初で、至極当たり前であるのに、我々がなかなか気が付きにくい、ある重要な事実に気が付かせてくれるのが良い。

 読んでいない本とそれにたいするコメントについて考えることは容易ではない。そもそも「読んでいない」とはどういうことなのかよく分からないからだ。「読んでいない」という概念は、「読んだ」と「読んでいない」とをはっきり区別できるということを前提としているが、テクストとの出会いというものは、往々にして、両者のあいだに位置づけられるものなのである。(p.014) 

この部分については、続けて訳者解説に飛んで見るとわかりやすい。

バイヤールによれば、ふつう「読んでいない」とみなされる状態も、じつは何らかの意味で既読の一状態である。「読んだ」にいろいろあるように、「読んでいない」にもいろいろある。よく考えれば、「完読状態」の方がまれかもしれない(そもそも「完読とは何を目安にするのだろうか)。(訳者解説p.282)

この部分に関連する著者の主張はこうです。

  • 「読んだ」と「読んでいない」の区別は非常に個人的で主観的な経験の問題であり、その区別を明確な線引をした上で分析をするのは不可能であるということ。
  • それに伴って、「完全な既読」あるいは「完全な未読」というものの状態の定義もできない。
  • ということは「読んでいる」状態にも、「読んでいない」という状態にも、様々あるのではないか?(例えば、本のタイトルは記憶している程度だとか、昔読んだけど殆ど忘れてしまったという程度だとか、完全に諳んじて言えるなど……)

そして「読書」そのものを、もう少し俯瞰して見ることを勧めています。そうすることで、むしろ語るべき本を読まないほうが良い場合もあるとさえ主張しているのが、この本のユニークなところです。

この本には<共有図書館>という概念が度々出現します。出現しまくります。本書の論理の鍵は、この<共有図書館>にあると言っても良いでしょう。

バイヤールは、本ついて語る時に重要なのは、細切れの本一冊一冊ではなく、どちらかといえば「全体の見晴らし」を良くしておくことが何よりも重要であると言います。

 教養ある人間が知ろうとつとめるべきは、さまざまな書物のあいだの「連絡」や「接続」であって、個別の書物ではない。(p.32)

(中略)したがって、教養の有る人間は、しかじかの本を読んでいなくても別にかまわない。彼はその本の内容はよく知らないかもしれないが、その位置関係は分かっているからである。つまり、その本が他の諸々の本にたいしてどのような関係にあるか分かっているのである。(p.34)

バイヤールは、この位置関係の方向性や感覚のことを<共有図書館>という概念で説明しています。

全く読んだことのない本Xがあったとしても、他の本とXがどのような関係であるか分かってしまえば、その本について大方のことは言えてしまう、語れてしまうというのがバイヤールの主張です。

というより、人が本を語る時には、多くの場合、何か別の概念や本と比べながら話を勧めていくことのほうが殆どです。この記事だってそうです。

この本の内容を語る時、「既存の読書本には無い切り口で、教養や読書に向き合っている」という形で書き始めました。この本にはそれ以外にも見どころが沢山あるわけですが、敢えて僕の語りやすい切り口から書き始めた訳です。

つまりこの本が、「山崎が今まで何かしらの形で存在を知っている、多読を勧める教養主義の本(があるかどうかも重要ではなく、最悪、でっちあげてもいい)との位置関係とは、だいぶズレているな」ということが分かれば、多分500文字くらいは説明できるわけです。

さらに言えば、本書の場合なら、タイトルからどんな本であるかという予測を立てることも難しくないでしょう。「本を読むのではないのであれば、何を読む?あるいは、何を考える?」というところから、

「本をちまちま読んでもだめ。語るんだったら、全体構造をきちんと把握することが重要なんだから。」

「ネットで前提知識集めて、面白そうだったら読めばいい。そうやってクラウド化された知を活用していけば、その本について語ることなんて造作もないことなんだよ」

これくらいの程度での意見であれば、ゴリ押しできそうです。だめかな?

実際、バイヤールは近いことを言っていると思いますが、いかがでしょうか。

つまり、教養の穴を恐れず、どんどん本について語っていって良いんです。実際に、どのように堂々と語るかについては、本書の中に様々な例示がありますから、興味があったら読んでみてください。

ところで、書評サイトってそういう意味では、すごく使えるんですよ。HONZさんとかALL REVIEWSさんとかを覗くと、そこには沢山の書評がありますし、殆どネタバレやんけ!という書評も数多くあります。僕はHONZのレビューを参考に本をあさっていた時期がありましたが、そういう経験がいくつかありました。

「読まなくても良かったんじゃね?」と思うことも何度かあった。

読むのが億劫になりそうな古典の理解でも、神奈川県立図書館の入門グレート・ブックスのサイトがあれば、原典を読んでいなくたって、ある程度のことは話せるようになるのではないでしょうか。

つまり「読まなくても本の中身をある程度予測できるほどの全体像を獲得すること」が重要なんです。ここで危険なのが、「学習を怠っても良い」と言っているわけではないということです。

見晴らしを良くする、全体像を捉える、<共有図書館>における位置関係の把握……どれも一長一短ではできません。やっぱりある程度本を読んだり学習しなければ身につかない力です。「語る」ことと「読む」ことは全く別であって、「語る」方に関してはある程度穴が空いていても大丈夫だよ、とそういう訳ですな。

一冊の本を読む時に、この本は自分の<共有図書館>のどの位置にあるのか……そういうことを意識して読むだけで、ただ漫然と本を読むのとは相当な差が生まれるのではないでしょうか。そうすれば、猛烈に本について書いたり話したりできてしまう訳です。

そもそも、我々は一生のうち、地球にある本をすべて読むことなど出来ません。あらゆる本に対して、いくつかのレベルで未読、あるいは既読の状態の間をたゆたっている状態です。未読を恥と捉える事自体、アホらしく思えてきませんか。

というわけで、今日からあなたも読書ブログはじめましょうよ。ね?仲間になろ?

え?本読んでないの?

え?内容怪しい?

いいのいいの!気にしない!

じゃあまずはタイトル見て、目次を見て、それからこの書評サイトをみて……

 

以上